1926年(大正15年〜昭和元年)に建てられた本館と石門が、国の有形文化財に登録されている三重県伊賀市の銭湯「一乃湯」。誕生から100年近い時を経た現在も、地域の人々や銭湯愛好家に親しまれ続ける「生きた文化財」です。
2023年7月に“代替わり”を果たし、新たな歩みをはじめた老舗銭湯。先代の中森秀治さんと銭湯を受け継いだ「ゆとなみ社」の石井皓也(いしいこうや)さん、おふたりからお話を伺うことができました。
目次
レトロとモダンが交錯する浴室
立派な唐破風(からはふ)のある、宮風木造建ての「一乃湯」。1926年(大正15年〜昭和元年)に「草津湯」として開業したのがはじまりです。1948年(昭和23年)に中森直吉氏がこの草津湯を購入。その2年後に「一乃湯」と名を改め、営業を開始したそう。
適宜改修を行いながら、現在まで営みを続けてきた一乃湯。2013年には国の登録有形文化財にも登録されました。脱衣所にはマッサージチェアなど昭和を感じさせるアイテムが随所に配されており、博物館さながらです。
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浴場の入口ではテラコッタやアーチなどの装飾を見ることができ、洋のエッセンスも感じる
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富士山のタイル絵は3代目・中森秀治さんが新設したもの
浴室は白湯や気泡風呂、水風呂などがある、「これぞ銭湯」というとてもシンプルな造りです。昭和レトロのイメージを大切にしながら、新しいデザインも随所に取り入れられている印象。2008年に銭湯を引き継いだ、3代目店主・中森秀治さんのセンスが光っています。
花柄のタイルやライオン型の吐水口など浴室内にもシンボルが多く、アートを感じられる空間。
湯質も良好で、熱めの湯、ぬるめの湯、水風呂など、温度の異なる浴槽を巡っているうちに気持ちよくなり、いつの間にか長湯になっていました。
イレギュラーな形で
銭湯を引き継いだ「ゆとなみ社」
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薬湯をかき混ぜるゆとなみ社の石井皓也さん。もともとは「サウナの梅湯」で務めていた
この銭湯を2023年に受け継いだのが、「ゆとなみ社」の石井皓也さん。
「ゆとなみ社」といえば「銭湯を日本から消さない」をモットーに、跡継ぎがいない公衆浴場を継承する事業で知られている企業。京都市にある「サウナの梅湯」をはじめ、8軒の銭湯を運営しています(2023年11月現在)。しかし、一乃湯を継承することになった経緯は、ほかの銭湯とは少々異なるようで……。
「廃業してしまう銭湯にゆとなみ社からアプローチをかけて、『事業を継承させていただく』というのが、これまでのパターンなんです。でも一乃湯の場合、『まだ続ける力はあるけれど、“別のこと”もやりたい』と、銭湯経営者の側からご相談をいただきました。これまでにないパターンですね」と石井さん。2023年7月1日、休業なしでそのままバトンを受け継ぐことに。
石井さんは三重県鈴鹿市の出身。京都の大学在学中に銭湯の魅力にハマり、さまざまな湯を巡っていたそう。一度繊維関係の会社に就職したのち、ゆとなみ社に入社。地元・三重県に戻り、店長として老舗銭湯を担う形となりました。
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一乃湯の横に建つ、レトロな雰囲気の「イチノユプラス」
一乃湯ではしばらく行われていなかった薪焚きを復活させるなど、若さも活かして精力的に動く石井さん。また、一乃湯の東隣に設けられた、「イチノユプラス」も今後活用していきたいと話します。
「『イチノユプラス』は昔、喫茶店だった建物なんです。現在は週末を中心に飲食店をオープンさせるなど、さまざまなイベントを行っています。この建物を積極的に使い、人が集まる空間にできたらいいなと思います」と構想を語ってくれました。
一乃湯先代が思い描く“ワンダーランド”とは?
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一乃湯先代店主の中森秀治さん。2022年にオープンした「町家暮らし こととこ」の2階にて
「イチノユプラス」と同じく、一乃湯の向かい側にある趣のある建物が気になります。実はこの古民家、事業をゆとなみ社に継承したばかりの3代目・中森秀治さんが営む宿泊施設「町家暮らし こととこ」。
「『レトロな銭湯が一軒ポツンとある』ではなく、『この界隈全体を魅力的にしたい』という想いを昔から抱いています。銭湯を中心とした一帯がちょっと不思議な雰囲気を醸していて、大人も子どもも心躍るような空間……。いうならば“ワンダーランド”でしょうか」と語る中森さん。
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築およそ100年の家をリノベーション。1日1組限定の宿泊施設で、宿泊者は一乃湯で入浴できる
「この建物や『イチノユプラス』も空き家だったのですが、そのまま放置しておくとか、取り壊されて更地になるっていうのはちょっと寂しい。『この界隈を訪れる皆さんに、 ワクワク感を届けたい』という想いで、地道に建物をリノベーションしているんです」と続けます。
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一乃湯や「イチノユプラス」「リス イタリア料理店」「うどん処 九重」「町家暮らし こととこ」が並ぶ約30メートルほどの「コトコトこみち」
中森さんはその時々に仲間たちとアイデアを出し合い、一乃湯や「イチノユプラス」「町家暮らし こととこ」などが並ぶ、30メートルほどの通りの賑わい作りに励んでいます。「ワクワク感を届けたい」という気持ちを、形にしているのです。
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「町家暮らし こととこ」2階から見下ろした、一乃湯とイチノユプラス
銭湯経営に対する意欲が衰えていないにも関わらず、ゆとなみ社に経営を任せた経緯が気になった筆者。中森さんに訊ねてみました。
「『任せる』と言うよりも、『同じ方向を向いている』んですよ。“一乃湯ワンダーランド計画”を彼らはとてもおもしろがってくれ、協力もしてくれています」と答えてくれました。そして、中森さんは次のように続けます。
「『銭湯を守っていくためのひとつのモデルになる』とも思っています。銭湯だけでは成り立たなかったり、家族経営では限界を感じる経営者も多いなか、『誰も引き継がないから壊す』のではなくて、『若手の企業に任せる』というのもひとつの手段だと思うんです」
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ネオンに照らされた夜の一乃湯。“ワンダーランド”感満点だ
「これからは一歩引いたところから、地域の活性化に携わりたいと思っています。だから、いいタイミングでゆとなみ社や石井くんに委ねることができたなと感じているんです」と最後に中森さんは語ってくれました。
文化財に指定されている銭湯をこれからも守り続ける石井さんと、先代の中森さん。理想の“一乃湯ワンダーランド”を追い求め、共に歩みはじめたばかりです。