森住建は、お客様第一主義で9年連続西濃地域注文住宅着工棟数No.1の工務店。「100人いたら100通りの幸せが育つ家」をコンセプトにゼロから一緒に考え創り上げる注文住宅を提案しています。完成後のOB様とのお付き合いも大切に考え、定期訪問だけでなく、感謝祭やサンタイベントなど交流イベントを開催しています。
そんな地域に密着し、お客様に寄り添い続ける森住建。誕生秘話やどのような思いで家づくりをし、お客様と関わっているのか、代表取締役の森浩幸さんにお話を伺ってきました。
目次
自衛隊員として働きながらの大学生活、
就職を期に岐阜へ。
代表取締役の森浩幸さん
まずはじめに、森社長の経歴からお伺いしました。
森社長:「高校を卒業後、陸上自衛隊に所属して働きながら、夜学で京都の立命館大学へ通っていました。自衛隊の任務期間は大学と同じ4年でしたが、このまま大学を卒業して就職をしたら、自分の自由な時間がなくなってしまうと感じました。
そこで、僕は大学の単位を2単位だけ残して、1年間留年することにしたんです。この1年間は自分の時間、大学生活を謳歌しようと思ったわけです。それまでは寮生活でしたので、一人暮らしをしながらバイト三昧。週一日だけ大学へ通うといった生活をしていました。
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自衛隊に所属していた当時の森社長(写真左側)
森社長:「大学を卒業後は、岐阜に戻ってきて電気設備の資材会社へ就職をしました。25歳のときに今の妻と結婚することになったのですが、看護師をしていた妻の方が給料がいいんですよね。当時の僕の上司の給料をみると、営業課長で28〜9万円だったので、これでは5、6年経っても妻の給料を抜けない!と思って焦りましたね(笑)。
そんなとき、ある岐阜の社長さんに出会って「お前、給料いくら欲しいんだ!」って言われたんです。これくらい欲しいと言ったら「じゃあやるから、うちで働け!」と言われて、その会社にお世話になることになりました。
「僕はなにをしましょうか」って聞いたら、「お前、給料これだけ欲しいんだろ?ならそのためには何したらいい?」って言われたんですね。そこで僕は、自分の欲しいだけの給料をもらうためには、営業しかないなと思い、営業をすることにしました。」
バブルの崩壊。夢破れ、故郷に。
森社長:「社長に、「今の営業先は俺らがつくってきたものだから、お前がやるなら新しいところ開拓しろ」って言われ、新規開拓するために、飛び込みでも何んでもしました。それから1年くらいして「森くん、商売は面白いだろ!商売やるなら東京だぞっ」て言われて、建築物の壁に穴を空ける会社を東京で設立することにしたんです。
会社を立ち上げ5年ほど東京にいましたが、バブルの崩壊とともに、不渡りを2回出してしまいました。そのときの教訓があったので、建築業界では珍しいのですが森住建をはじめてからは、一度も手形をやっていません。
会社がダメになったのが30歳のときです。長女が小学校に上がる前の年でもあったので、岐阜に戻って来ました。借金も1,500万円くらいあったので、何しようかな?と考えていたんですが、見つからないまま3人目が生まれたんですね(笑)。そのときに大工をやっていた父から、暇してるなら大工を手伝えって言われ、遊んでるわけにもいかないので次の仕事が見つかるまでのつなぎとしてはじめたのが、最初のきっかけでした。
当初は、見つかるまでって思っていたのですが、数カ月やると、家づくりっておもしろいことに気づいたんです。これを一生の仕事にしていきたいなと思うようになり、本格的にこの仕事をはじめることになりました。」