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納屋橋の川沿いに店舗をかまえる老舗額縁店『高山額縁店』。お店の奥は、明治時代に半田で誕生した幻の「カブトビール」が堪能できるカフェバーとしての顔も持っています。なぜ半田のカブトビールがここ名古屋で飲めるのか?「納屋橋TWILO(以下:トワイロ)」の誕生エピソードをお聞きしてきました。
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お店の天井を見上げると額縁がインテリアとして装飾されています。
店内の中央にはDJブースも。オーナーの高山さんはDJとしての顔も持っているので、トワイロでプレイすることもあるのだそう
カブトビールとは?
カブトビールは愛知県半田市で、1889年から1943年のおよそ半世紀の間だけ生産され、幻のビールとも呼ばれています。明治時代のはじめは、サッポロ・キリン・エビス・アサヒなど名だたるビールが誕生。そんな中、カブトビールは大手4大ビールメーカーに迫る勢いで普及し、1900年に開かれたパリ万博に金賞に輝きました。
残念ながら太平洋戦争によって工場は閉鎖に追い込まれ、カブトビールの製造は終了。幻のビールとなったカブトビールですが、復刻したいという熱い想いをもつ地元の方々が中心になって、長い年月を経て復刻されました。
納屋橋に賑わいを
高山額縁店兼トワイロオーナーの高山大資さん
カブトビール名古屋支店立ち上げの秘話をお聞きしました。
高山さん:「話は、愛知万博のころに遡ります。名古屋市が、万博の開催にあたって、納屋橋の地に賑わいを取り戻すために、納屋橋の護岸道を整備をしたんです。以来、名古屋市さんとも情報交換をしたり、納屋橋住民たちの間でも話合いが行われるようになりました。
その事業の一環として、護岸道をもっと市民に利用していただくために、河川管理をしていた方が護岸道の規制緩和をしたんです。そこから、「なやばし夜市」や「ナヤマルシェ」をはじめとするイベントが納屋橋で行われるようになっていきました。
あるとき、イベントに出てくれないかと打診をされたんです。僕は人前にでるのがあまり得意ではなかったのですが、祖父が亡くなってから、祖父のためにも、この街のためにも僕に何かできることがあればと思い、イベントにでることを決めました。」
カブトビールとの出会い
高山さんが主催しているイベント「納屋橋ホリデーマーケット」。
高山さん:「イベントを開催するようになってからは、確かに賑わうようになりました。でもそれは、一過性のものでイベントが終わればまたいつもの納屋橋。それって本当の賑わいなのかな?って思ったんですね。納屋橋に栄と同じような賑わいをつくることはできないけど、この川を通じてできる賑わいがあるんじゃないかと考えました。納屋橋らしいロマンを感じる街並み、懐かしさを感じる街並み。ストーリー性のあるものは何かないかと模索していました。
「レトロ納屋橋まちづくり会」のみんなで集まって街の歴史を振り返ったときのことです。明治・大正時代の納屋橋の写真を見たら、「加富登麦酒名古屋支店」という看板がかかげてあったんです。「これなんですか?」って聞いたら、どうやらこの場所に、昔人気のあったビール屋さんがあったみたいなんです。名古屋市の人に聞いたら、「カブトビールは今でも飲めるらしいですよ」という情報を得ました。しかもこの地域でNO.1シェアを誇っていたのに、いつのまにか飲めなくなった。でもいままた飲める。このストーリーにとても惹かれましたね。
たんなる流行りもののビールではなく、歴史的背景がある。そして半田にとっての財産であること。これって、僕たちが納屋橋で抱いている想いと同じなのではと感じました。」
納屋橋にもう一度カブトビールを。想いをつづった手紙
半田の赤レンガ倉庫
高山さん:「半田市役所に問い合わせをして、納屋橋で販売できるイベントがやりたいと伝えたところ「高山さんそれは無理です。僕らは商売目的でやってるわけじゃない。」と言われて、あしらわれてしまったんです。
「じゃあどこで飲めるんですか?」って聞いたら、「いや飲めないです。」って。それでもめげずに何度も電話しているうちに、カブトビールを復刻された「赤煉瓦倶楽部」の理事長さんにつないでもらえました。
案の定すぐに断られましたよ。でも、僕は飲食店をやってるわけではなく、ちゃんと想いがあるしコンセプトがありますと伝えたら、じゃあ話は聞きます。企画書を持ってきてくださいって言われたんですね。
ただ、企画書なんてつくったことはないし、テンプレートを使った企画書なんて見透かされるなって思ったんです。なので、ダメ元で想いを込めて手紙を書きました。納屋橋の資産を次の世代に受け継いでいきたいこと。今じゃなくても、いつかカブトビールがこの納屋橋の地に帰ってきたというようなふれ込みで、知っていただきたい。ということを手紙にしたためました。」
高山さん:「そしたら、次の日に理事長の馬場さんから電話がかかってきて、「一緒にやろう!まずは半田にこい!」と連絡をいただいたんです。まだ工事中の赤レンガ倉庫に行って、話をお聞きしました。馬場さんはものすごいエネルギッシュな想いを持っていて、想いをお聞きして、僕は絶対にこの人に恥を欠かせたくないと思いましたね。こうして、晴れて納屋橋でカブトビールが販売できるようになりました。」