幻の「カブトビール」が味わえる「半田赤レンガ建物」
目次
常設展示室で
「赤レンガ建物」の歴史を学ぶ
展示室では、「半田赤レンガ建物」やカブトビールの歴史についてパネルや映像で紹介されています。残念ながら展示室内は撮影禁止のため、少しだけ文章だけでお伝えしていきます。
半田市のある知多半島は、江戸時代から酒・味噌・醤油・酢などの醸造品造りが盛んな地域でした。現在のミツカングループにつながる「中埜酢店(なかのすみせ)」が誕生したのも、ここ半田です。その中埜酢店の四代目・中埜又左衛門と、敷島製パン創業者・盛田善平らにより、明治22(1889)年に「丸三ビール」と名づけられた瓶詰めビールが出荷されたことがカブトビールのはじまりです。
明治31(1898)年に、ドイツから機械技師と醸造技師を迎えて、半田町榎下に新ビール工場となる半田赤レンガ建物を建設。「加武登麦酒」と改め、本格的なドイツビールの醸造を開始しました。その後たった2年でパリ万博にて金賞を受賞。大手4大ビールメーカーに迫る勢いで普及していきました。
明治33(1900)年には酒税が課せられ、さらに日露戦争後の景気衰退により、ビール業界にも大きな影響を及ぼします。カブトビールは「日本第一麦酒株式会社」「加富登麦酒株式会社」などの社名変更を繰り返し、昭和8年には「大日本麦酒株式会社」と合併しました。その後太平洋戦争により工場は閉鎖。大日本麦酒株式会社はサッポロビール株式会社とアサヒビール株式会社に分離していきます。
第二次世界大戦中は倉庫として使用され、戦後は日本食品化工(株)として平成6年まで使用されていました。
展示室の壁面や、廊下部分などは当時の建物がそのまま残され、赤レンガ建物が過ごしてきた歴史を感じることができます。
外壁に刻まれた歴史のつめ跡
機械室で使われていた「柱頭」
建物の外側も見学してみましょう
半田赤レンガ建物の改修・外構の整備には、名古屋市鍋屋上野浄水場で使用されたレンガを再利用しています。建物の建設と同時期である明治後期〜大正初期に焼成され、ろ過池で約100年間使用されたものです。
第二次世界大戦中、ビール工場としての役目を終え、中島飛行機製作所の衣糧倉庫として使用されていた半田赤レンガ建物。昭和20年、小型機による超低空での攻撃を受けました。建物の北側の外壁には、多数の機銃掃射痕が刻まれています。戦争遺産として被害を現在に伝える役割も担っているんです。