目次
名古屋城から徳川園に至るエリアは、文化人・財界人の屋敷が連なり「文化のみち」と名付けられています。 江戸時代から明治、大正へと続く名古屋の近代化を担った文化人たちが暮らした歴史的建造物が今も多く残されています。
「文化のみち」エリアには、かつてトヨタグループの礎を築き上げた豊田家一族の館が集まっていました。「旧豊田佐助邸」は、その中で唯一現存する建物です。豊田佐助とは、発明王・豊田佐吉の実弟で、豊田紡織の社長を務め、兄・佐吉を支えた実業家です。
大正時代の建築様式を今に伝える「旧豊田佐助邸」をご紹介していきます。
「旧豊田佐助邸」とは?
「旧豊田佐助邸」は、発明王と呼ばれ現在に至るトヨタグループの礎を築き上げた創始者・豊田佐吉の実弟・豊田佐助が住んでいた邸宅です。大正12年に建設。白いタイル貼りの木造の洋館と、広い間取りの和館で構成されています。
この邸宅の歴史は、大正4年に佐吉の娘・愛子と結婚した婿養子の豊田利三郎が、新居として洋館部分を建てたのがはじまりと考えられています。しかし昭和7年に、利三郎はさらに広い土地を求め、「旧豊田佐助邸」の北側にある白壁町筋に移り住みます。
その後大正12年頃に、佐吉の弟の佐助が和館を増築して住みはじめました。佐助には5人の子供がいたとされ、相当な広さが必要だったようです。洋館は上が陸屋根になっており、豊田一族の子供たちの遊び場になっていました。
豊田佐助の写真が展示されていました。
豊田佐助は、質実剛健でありながら独特の美学と先見の明にあふれた人物でした。水洗トイレや電話ボックスを導入したり、関東大震災前の時代でありながら耐震構造を取り入れるなど、「旧豊田佐助邸」には、佐助の先進的な考え方が随所に反映されています。
この白壁地区にはその昔、兄の佐吉やその実子でトヨタ自動車の創業者である豊田喜一郎など一族の邸宅が集まっていたとされていますが、現存している館はこの佐助邸のみです。太平洋戦争後に米軍に接収され将校の住宅となっていた時期もありますが、その後アイシン精機の所有となり、現在は名古屋市が借用し一般公開しています。
ではさっそく「旧豊田佐助邸」の中を見学してみましょう。「文化のみち二葉館」「文化のみち撞木館」とはまた少し異なる和洋折衷のスタイルがみどころです。
廊下は邸宅とは思えないゆったりとした造りになっています。左側の扉の中は、書生室だったそう。
階段も上る人と下りる人がすれ違えるよう幅広につくられています。多くの人がこの邸宅を訪れていたのでしょう。